女優・香川京子さんが語る映画界あれこれ

6月13日(土)、梅雨の晴れ間の午後に、当館では女優・香川京子さんのトークショーを開催いたしました。
チケットは発売と同時に完売、満席の場内が香川さんへの熱い期待で高まる中、蒸し暑さを吹き飛ばすように香川さんが爽やかに登壇されました。

仕事を見つけて自立しなければ、という思いから東京新聞のニューフェイスノミネーションに応募したというデビュー時のエピソードから始まり、売り出しの頃に何本もの作品で共演した田中絹代さんの思い出、共演作の中の1本であり、当日に上映も行った成瀬巳喜男監督『おかあさん』(1952年)が今でも一番好きだということ、企画展のテーマでもある写真家・早田雄二さんについて伺うと、「早田さん、始めの頃は私怖かったの」と可愛らしい少女のように顔をしかめるなど、やわらかい口調ながら、冒頭から観客をどんどん引き込んでいきます。

1953年のお正月に公開された『ひめゆりの塔』(今井正監督)は、当時不振にあえいでいた東映にとって起死回生の大ヒット作となりましたが、本作への出演の前に香川さんは「出演する作品は自分で決めたい」と、新東宝を辞めてフリーに転じます。五社協定ができる前だったとは言え、ひとつの会社の成長株だった女優さんがフリーになるのは当時でも大変なことだったに違いありません。
引っ込み思案な性格だと仰っていましたが、若い時から、大事なところでは自らの意志をはっきりと示される方だったのですね。お酒も麻雀もやらず、現場以外での付き合いはほとんどなかったという潔さも香川さんらしいです。
本作でひめゆり学徒隊を演じた縁から、ひめゆり同窓生の皆さんとは、その後長きにわたって交流を持たれ、後年『ひめゆりたちの祈り』という書物を上梓されるなど、香川さんには忘れられない作品になったようです。

素直な少女や清廉な女性を演じることが多かった香川さんですが、1956年公開の『猫と庄造と二人の女』(豊田四郎監督)では汚れ役に挑戦しています。森繁久弥さん演じる庄造の後妻に入り、先妻の山田五十鈴さんと取っ組み合いの喧嘩を繰り広げる関西弁のアプレゲールという、見る側もびっくりの役どころで、香川さんも「映画を見ると無理している自分がわかるので今でも恥ずかしい作品」と仰っていましたが、初めて映画の中で着た水着が真っ赤だったこと(モノクロ作品なので画面からはわかりません)、真夏の日曜日という大混雑の神戸のビーチでロケをしたことなど、知られざるエピソードを披露してくださいました。豊田監督からは「この役にぴったりな女優はたくさんいるけれど、あなたが演じるから面白いんだ」と起用理由を説明されたそうですが、監督の意図、ズバリ的中ですね。監督は香川さんと山田さんの喧嘩を嬉しそうに眺めていたそうです。

小津・黒澤・成瀬・溝口といえば、日本が世界に誇る映画監督の大巨匠ですが、香川さんはこれら4人すべての監督の作品に出演された、数少ない女優でもあります。
『七人の侍』(黒澤明監督、1954年)と共にヴェネツィア国際映画祭で受賞した『山椒大夫』(1954年)に出演された香川さんは、映画祭に参加して帰国した折に、羽田空港で『近松物語』(1954年)の役が女中のお玉から主役のおさんになったことを伝えられたそうです。溝口監督は役者泣かせで知られていますが香川さんも、監督の「反射していますか」という言葉だけを頼りに死に物狂いで演じ、苦労をした分最も思い入れの強い作品だと仰っていました。
黒澤監督作品についても、初の黒澤組作品『どん底』(1957年)で演じたおかよは大好きな役で、複数台のカメラでの長回し撮影も苦ではなかったこと、『赤ひげ』(1965年)で妊娠中の身ながら良家のお嬢さんから狂女に変貌する役を演じた際は、当日会場にもお越しになっていたスクリプターの野上照代さんにも相談したこと、作品の中ではいじめられることの多かった山田五十鈴さんの構えない開けっ広げな人柄のことなどもお話しくださいました。
フリーで活動していたために、会社をまたいで様々な作品に出演できたこともあるかもしれませんが、どんな色にも染まる香川さんのまっさらな本質が、巨匠たちにも愛されたのではないでしょうか。

とにかく縛られるのが嫌いで自由に行動したいと、マネージャーの方とお二人で電車を乗り継いで鎌倉までお越しくださった香川さん。
当館を後にされるときも、スタッフ一人一人の目を見てご挨拶してくださいました。
まごうことなき大女優でありながら、誰に対しても謙虚で丁寧に応じられるその姿に、人としての素晴らしさを改めて感じました。
壇上に飾られた、この時期、鎌倉で見頃を迎えている紫陽花の花が、香川さんの清楚な人柄を一層際立たせているように見えました。(胡桃)