企画展「昭和を彩る女優たち 松竹大船撮影所物語」③

企画展「昭和を彩る女優たち 松竹大船撮影所物語」を紹介するコラムの第3回目となります。最終回となる今回は、会期中に開催したトークイベントについてご紹介します。

 2月9日には、木下惠介監督による日本初の長編カラー劇映画『カルメン故郷に帰る』(1951)の上映と映画談話室を開催しました。映画談話室とは、当館スタッフが進行役となり、上映作品の解説を盛り込みながら、映画について会場の皆様と語り合う場です。日本映画史に残る名作『カルメン故郷に帰る』はデジタルリマスター版での上映となりました。鮮やかに甦った美しい色彩は、当時の感動を今に思い起こさせてくれました。
 この日はビッグサプライズがありました。なんと本作に子役で出演した城澤勇夫さんが上映前に来館され、お声がけいただいたのでした。城澤さんは、当時、5歳で、佐野周二さん演じる田口春雄、井川邦子さん演じる光子夫妻の息子役、清君を演じられています。急遽、映画談話室で当時の貴重なお話をお聞きできればとご登壇をお願いしました。
   本作の思い出として、撮影中、浅間山の噴火があり、木下監督が高峰秀子さんを真っ先に担いで避難したことや、撮影後の宴会で酔った坂本武さんが怖かったことなど撮影時のエピソードをお話しいただきました。最後には、佐野周二さんがオルガンで弾く劇中歌「そばの花咲く」(作詞・作曲:木下忠司)をアカペラで歌っていただきました。名作の撮影現場が目の前で繰り広げられているようで、会場の皆様とただただ感動しておりました。
   城澤さんは、本作出演後、鎌倉を舞台にした小津安二郎監督の名作『麦秋』(1951)にも間宮勇役で出演されており、鎌倉での撮影時の思い出もお聞きすることができました。思いがけないビックサプライズに、会場の皆様となんとも至福の時間を過ごさせていただきました。

 2月22日には、『横堀川』(1966)上映とトークイベント「撮影監督・厚田雄春を語る」を開催しました。ゲストに厚田雄春さんの三女である菅野公子さんと公私ともに厚田さんと親交の深かった撮影監督の兼松熈太郎さんにお越しいただきました。企画展の開催にあたって、菅野さんから事前にお話をお聞きした際に、後年、厚田さんがお好きだった作品として、大庭秀雄監督、岡田茉莉子主演の『残菊物語』(1963)と、同じく大庭秀雄監督、倍賞千恵子主演の『横堀川』をあげていただきました。小津映画で狙ったハイキーの画調に対して、後年の『残菊物語』『横堀川』はローキーを狙った作品として、厚田さんにとって重要な作品とお聞きして、今回、松竹大船作品である『横堀川』を上映しました。

 初めに、兼松さんから“撮影監督”についてお話しいただきました。撮影監督とは、主に欧米ではキャメラオペレーターと照明技師を指揮する画面の責任者のことを指しますが、小津組の撮影現場では、小津監督がアングル、構図を決め、厚田さんが照明から露出までを決めていて、日本でいう撮影監督は厚田さんが最初だと思いますとのお話しいただきました。兼松さんは1957年から1963年にかけて厚田さんの撮影助手として現場につかれています。当時は撮影所に千人以上のスタッフが働いており、自動車部や工作部なども設置されていて、撮影のために何でも作っていたそうです。兼松さんが入社して最初についた作品が、小林正樹監督の『黒い河』(1957)でした。米軍基地周辺の諸問題を扱った社会派作品であり、厚田さんのローキーの撮影技術が存分に発揮された作品です。本作は仲代達矢さんが小林監督の作品に初めて出演した作品であり、松竹映画への初出演作でもあったことから、仲代さんとは松竹映画の同期生だと思っていますとのお話があり、撮影現場の一体感を感じました。当時、松竹大船撮影所における小津組、木下組は別格の存在だったそうで、それぞれの組についたスタッフは、周囲からも一目置かれていたとのことでした。兼松さんは小津安二郎監督の『彼岸花』(1958)、『お早う』(1959)、『秋日和』(1960)の撮影現場についています。9時から始まり5時にきっちり終わる小津組の撮影現場には時間に余裕はあったけれども、松竹ヌーヴェルヴァーグの監督たちの撮影現場は深夜まで撮影が続き、その分、残業代がでて良かったことなどユーモアを交えてお話しいただきました。モノクロフィルムで撮影していた頃は、小津組、木下組だけは、必ず全カット、テストピースのための撮影を行ったことや、小津組で使用したアグファカラーの撮影用フィルムを扱う上での苦労話など、兼松さんのお話から当時の撮影現場の様子が生き生きと伝わってきました。

 今回のトークイベントの前に、菅野さんのご自宅から、厚田さんが美空ひばり主演の『リンゴ園の少女』(1952)の撮影で滞在していた青森の弘前から送られた葉書が、約70年ぶりに偶然見つかったとのことでご紹介いただきました。長い年月を経て、父親からの葉書を再び手にできたことに感激し、宝物になっているとのお話しをいただきました。家族を気遣い、撮影現場の様子を記した厚田さんの文面からは、仕事一筋に生きた職人的な気質と優しさが伝わってきました。また、小津監督とは一度も会ったことがないと思っていた菅野さんは、最近になって、浅草に住んでいた幼い頃、上がり框に座る小津監督のことを思い出されたとのことで、印象的な大きな背中と、菅野さんの祖母に「おばちゃん長生きしてね」と声をかけていた小津監督の姿をお話しいただきました。
 会場には、小津組のプロデューサーであり、鎌倉文学館館長を務めた山内静夫さんや菅野公子さんの御子息で、厚田さんのお孫さんにあたる、菅野松太郎さんもお見えになりました。菅野松太郎さんからは、電車が大好きだった祖父から、車窓から見える風景や光の変化をよく見ておくようにと言われていたことなど、映画にも通じる貴重なお話をしていただきました。
 兼松さんは、晩年も厚田さんと公私ともに親しくされ、よく兼松さんの御自宅に大好きだった麻雀をやるため、お泊りになっていたとのことです。厚田さんは、小津監督亡き後、小津監督と親交の深かった井上和男監督が設立した蛮友社で『小津安二郎 人と仕事』の編集作業に協力し、本書が刊行された1972年に松竹を退社されています。1983年には小津監督没後20年を期して、『生きてはみたけれど 小津安二郎伝』(井上和男監督)が製作され、厚田さんがインタビュー出演をされるとともに、撮影監督を担当され、兼松さんがキャメラを担当されました。本作が厚田さんの最後の仕事となりました。
 最後に菅野さんから資料を後世に残すことの大切さとともに、小津映画を一本でも多く、幅広い世代の方々に見てもらいたいとのお言葉をいただき、会場からは拍手が起こりました。

 企画展の会期後半には「松竹キネマ100周年記念アフタートーク」や「撮影監督・川又昻追悼上映」、「松竹大船撮影所ゆかりの地散策ツアー」の開催を予定しておりましたが、このたびの臨時休館により中止となってしまいました。また皆様にお届けできる機会を作りたいと思いますので、楽しみにお待ちいただけましたら幸いです。下記のリンクにて「松竹映画100周年」公式サイトをご覧いただけます。国内外の記念イベントが紹介されていますので、こちらもぜひご覧ください。(文)